夕張メロン誕生物語

出典:JA夕張

 

「夕張キング」

 今や夏の風物詩として贈り物に珍重される「夕張メロン」。
 しかし、このメロンが全国に知れ渡るようになるまでには、数々のドラマと苦労がありました。
 夕張メロンは、夕張の人々の不屈の精神が生んだ奇跡のメロンだったのです。

 明治21年、夕張炭田が発見されてからこの街の発展は始まりました。
 当時エネルギーの主流であった石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれていました。多くの労働者が全国から集まり、最盛期には10万を超える人々で街はにぎわっていました。
 しかし、農業という面から見たときには、夕張は苦労の多い土地でした。火山灰質の夕張の大地に適した作物は限られます。山間地のため、北海道ならではの大規模農業も行えません。雑穀・豆類・アスパラ、長いもなどの野菜を細々と作るだけでは、生活は成り立ちませんでした。

 昭和32年のある日のこと、地区を回っていた、当時の夕張市の農業改良普及員がひとつの果物に出合いました。農家が自宅用に細々と作っていた、「スパイシー」という名のメロンでした。

 農家が差し出したメロンの見た目は、メロンというよりはウリでした。味も、砂糖をかけないと食べられないほどで、まったく甘みがありません。しかも果肉は赤色です。ネットの張った青い果肉のメロンが主流の時代、ネットのない、赤い果肉の味なしメロンに勝機などないように思えました。

 しかし、農業改良普及員はそのメロンに可能性を見いだしました。スパイシーはどのメロンにも負けない、麝香のような甘く芳醇な香りを持っていました。

 あとは甘くさえなれば、十分夕張の特産品になる。農家も助かるのではないか。そう考えたのです。
それは、夕張の農業に、一筋の希望の光が差した瞬間でした。


 昭和34年、有志が集い、メロンの交配試験が始まりました。
 なかでも、一番のポイントとなる、交配に使うメロンの種探しは難航しました。当時日本にあった42種類のメロンの中から候補に選んだのは、抜群の甘さを持つ高級メロン「アールス」でした。

 しかし、原種はどこの産地にとっても命。門外不出で大切に守られ、分けてくれるところなどそうそうありません。
 昭和35年6月、交配を行い、10個の実を収穫。翌年春から、初の栽培に取り組みました。
 必死の思いで育てた新品種のメロンは、夏に立派な実をつけました。ジューシーな赤い果肉、うっとりするような豊潤な香り。そしてとろけるような甘み。大衆にも届くようなメロンを、という作り手の予想を遥かに超えるメロンに農家は酔いしれました。
「最高のメロンができた。苦労が報われた」
誰もがそう思いました。みな、自信満々で夕張メロンを集荷場に持ち寄りました。

 石炭なき後の夕張の街を支え、「赤いダイヤ」とまで呼ばれるようになった夕張メロンこと、品種名「夕張キング」。実は、品種の研究はいまだに続いています。
 しかし、「夕張キング」を超える新品種は現在も誕生していません。夕張メロンは、まさに天の恵みといえる産物だったのです。